フッキングシステムによる
アイスクライミング


柏瀬祐之

  

             
フッキングの発見


 岩だろうと氷だろうといさいかまわず、アックスをふるって登っていってしまうあの曲芸的なモダン・ミックスクライミングと,それを競技会じたてにショーアップさせたアイスクライミング・コンペとが,このところ注目を集めています。
 コンペのほうはともかく、モダン・ミックスクライミングの日本での普及となると、適地がすくないせいか笛吹けど踊らずというところがありますが、その議論はこのさい横におくとして、兄弟どうしのようなこのふたつの新潮流がクライミング界にもたらしたお手柄のひとつは「フッキングの発見」というやつではないでしょうか。前者は岩角に、後者は人工ホールドや人工氷穴に、アックスのピックを積極的、連続的に引っかけて登るという、そんな新しい意識と技術とを生みだしたのです。
 登攀中にピックを引っかけて手がかりに使うということはこれまでにもなかったわけではありませんが、それは緊急避難というか、あくまで臨時の処置みたいなものでした。そんな臨時雇いを、この新潮流の兄弟は、正式に採用し,独立した新しい「技術」にまで育てあげてみせたのです。ちょっとしたおどろきでした。
 ところがです。この新「技術」は、観察するところ、どうやら岩角や人工ホールド、人工氷穴あたりにとどまっていて、自然の氷そのものにはまだ必ずしもおよんでいないようなのです。そこではあいかわらず臨時雇いあつかいといったぐあいです。
 本来のアイスクライミング、つまり自然の氷瀑や氷柱を登る場面になると、かわりばえもなくピックを氷面に打ち込んで登っていく。氷面にくぼみやシワがあってもほとんど目もくれず、とにかくピックを打ち込むことに専心し、氷が薄すぎて打ち込みが利かないといったときにだけやむをえず例外的にフッキングを用いる。ミックスクライマーであろうとだれであろうと、そこのところはいまだに大して変わっていないようなのです。
 ぼく自身けっこう楽しませてもらっているくせにこんなことをいうのはナンですが、こうした今もって変わっていない打ち込みいっぺんとうのクライミングスタイルは、しかし、いかにも直線的で強引で、ときに破壊的な印象さえうけないでしょうか。再生する氷のことだから自然保護とは関係ないが、カマキリのようにひたすら両手のアックスを前後に振っていると、自然の造形と自分自身の感性に対してなにやら乱暴狼藉をはたらいているような気がしないでもありません。つまり精緻さと柔軟さに欠けていてゲームとしてはすこし単調で洗練化が不足しているような・・・。そんな印象の上に、たとえばこうやったらフリー、こうではAo、といった細かいルールを重ねてみてもどこか砂上の楼閣を築くようでしっくりこない。そうつぶやくと、たいていのアイスクライマーが首をたてにふってみせるから、あんがいこのての不満は広く潜在しているのかもしれません。
 不満を持っているくせにそこから抜けだせないでいるのは、氷の場合、従来方式を踏襲するしかない,アックスのピックを打ち込んで登るしか方法がないと信じているせいでしょう。フッキングなんかじゃ、登れる氷瀑も登れなくなってしまう、だいいちピックが氷からはずれやすくて危険だと、はなからしり込みしているふうなのです。
 理解できます。その不安はとうぜんです。洗練化がどうのとナマイキいってみても、登れなくてはしかたないし、墜落ばかりしていては身がもちません。
 でもちょっと待ってください。これまでのアイスクライミングのように、氷質さえそれなり良ければほとんどどこでも登れてしまうといったほうが、クライミングのありようとしてはむしろヘンなんじゃないでしょうか。ゲームとしても冒険としても深みがないし、先がないような・・・。
   用具改良のおかげもあって、打ち込んで登るという方式(ルール)そのものが、登る人間側にぐんと有利にはたらくようになってしまったと考えられなくもないのです(ぼくのような老骨には,どんな用具や方式に頼ったところで有利すぎるなんてありませんが、そうした個人的事情はこのさい棚に上げての議論です)。
 ごぞんじ、ヒマラヤ高峰やミックスクライミングの特殊な対象を除くと,アイスクライミングの舞台となるおもな氷ルートは、打ち込み方式が一般化した1970年代以降、たった20年足らずで、日本はいうにおよばず、世界的にもあらかた登りつくされてしまいました。そのすこしまえに岩登りで露呈した人工登攀の陥穽とそれはよく似ています。ゲームがゲームをわさわさと食いつくしてしまったのです。
 そうはいっても、ぼくは打ち込み方式をいちがいに否定しているわけでは毛頭ありません。懸垂氷河や堅雪壁、あるいはある種のアルパインクライミングには打ち込み方式は必須でしょう。氷瀑,氷柱だってそれでしか登れないところは、たぶん多くあるはずです。しかし同時に,打ち込み方式では得られない、別の新しい感覚世界をもたらしてくれるような方式を用いてこそ、いっそう登攀価値が高揚する場面だってあると思うのです。そんな有力な方式のひとつにフッキングが・・・そう考えるのです。


              
多彩な身体感覚


 でまあ、実際に試してみると、これがなんとかなりそうだし、けっこうおもしろいのです。もちろんフッキングを使ってのアイスクライミングです。ひとつの技術としてとらえるだけでなく,安全をはかる意味でもシステムとしての網をかける必要はありそうですが、なによりもまず身体感覚がこれまでとかなり異なります。ひとことでいうと、打ち込み方式の「豪快な単調さ」はなくなって,かわりに「繊細な多彩さ」があらわれます。
 プロセスを追ってみます。
 まずは、登ろうとする氷瀑なら氷瀑を全体として眺めて、ルートになりそうなラインをさがします。これは今までと変わりません。変わってくるのはここからです。従来は傾斜がゆるく、比較的凹凸のすくない氷面から優先してラインどりされることが多かったのですが、こんどは逆です。傾斜はそれなりに強く、はっきりしたシワやら凹凸があるほどつごうよいのです。
 ラインを選んだら、アックスのピックを氷に打ち込まず、そのシワやら凹凸、つまり氷角にひっかけて登っていきます。このとき,氷柱を横からフックするような場合を除けば、フッキングの力の方向が鉛直に近いほど、つまり傾斜が垂直に近づくほどピックのひっかかりは安定しやすい。これは岩、氷を問わずフッキング一般に共通する傾向のようです。
 これだけで、体の動きはふしぎとジムナスティックなものに変わります。腰の位置が氷壁面に自然と近づき、四肢の動域が広がります。岩登りのフリークライミングに似てくるのです。かぎられた遠近の氷角をひろって体幹はときに大きく屈伸し、あるいは傾きます。
 上体がひねられ、片足は宙を泳ぐ・・・。すこしオーバーにいえばそんなところです。
 岩のフリークライミングと異なるところは、いうまでもなく氷角が滑りやすく欠けやすい性格をもつために、ムーブ中はフックした力の方向を極力一定に保ち、ショックもあまり加えられず、したがって全体にスタティックな動きにならざるを得ない点でしょうか。
 もちろんピックを打ち込む従来スタイルにくらべれば、ムーブは多彩であり、ともなって同じ用具の使用法も多彩なものになります。フックの方向は氷角の向きと形状によってさまざまで、さらにスタッキングはもちろん、ジャミング、トルキング、レイバック、アンダーフッキング、フィギャー4・・・。またまたオーバーにいちゃうとそうなります。つまり現状ではミックスクライミングやコンペでしか見られないような高度なテクニックが、腕前さえともなえば、あんがい自然に頻繁に使われるようになるわけです。
 とうぜんアイゼンのフロントポインティングは金科玉条でなくワン・ノブ・ゼムです。バックステップをはじめ柔軟性のあるフットワークが要求されるはずです。いやフットワークばかりではなく、全身の柔軟性があるていど問われます。その面では、打ち込み方式にくらべて、体のやわらかい女性には福音となりそうです。
 手首のスナップ力が弱い女性はピックの打ち込みを苦手とする人が多いのですが、柔軟性のほかにも、力があまりいらないフッキングは非力な女性に合っています。打ち込み方式はパワー偏重のところがありますが、そこのところをかなりテクニックで代替しうるわけです。省エネ型の登りかたになりうるわけです。もちろんプロレス技みたいなフィギャー4なんてやれば別ですが。


             
ほんとうに登れる?


 フッキング方式の持ち味ばかり挙げましたが、とうぜん問題もあります。もっかのところフッキング方式にかならずしも向いてない用具が多い点と、安全確保のためのプロテクションをどうセットしたら良いか。それにかんじんの,はたして自然の氷角(ナチュラルホールド、以下NH)だけのフッキングで登れるルートがどのていど存在するかの疑問です。
 用具、とくにアックスは、直感的にいえばフッキング力を高めるために、少なくともあと、ふた工夫くらいほしいような気がします。なにをもってふた工夫かといわれると困るのですが、今のアックスはアックスと呼ぶくらいですから、まだまだ打ち込み優先に作られています。これがフッキング優先あるいはそれ専用ということになれば、かなりの形態進化がおきてくるように思います。
 既存のアックスでフッキング力のやや優れたものをあげると、ぼくの知るかぎり、シモンのスカッド(やや重いし、シャフトの握りも太すぎるが)、ミゾーのV-1S(シャフトが短めなので遠い氷角にはとどきにくく、またエビ反り型のため氷塊をだきこむような大フックができない。新型の「北辰」は未試用)、シャルレのクォーク(氷塊をだきこむような大フックをすると指がシャフトと氷壁面との間にはさまれて痛い)といったところでしょうか。わが常用のグリベルのライトマシーンは岩のフッキングには適しているが、外傾した氷角には思ったより利きません(流水が凍るのでNHの底面はたいてい外傾ぎみです)。
 アイゼンも多彩なフットワークに対応してさらに変わっていく必要がありそうです。シンプル化をねらって靴との一体型なんてものも現れるかもしれません(須田義信氏の予測)。シンプル化といえば、アイスクライミングの用具装備は,現状のところ全般にハッタリじみていて大仰すぎるように感じますがいかがでしょう。全部身につけると、まるで戦闘ロボットになったようで,妙にサディスティックな気分に襲われるのはぼくだけでしょうか。
 横道にそれそうなので、ふたつめの問題です。かりに、いまいった用具の問題が解決したとしても、フッキングがフッキングである以上,ピックなりが打ち込み時よりも氷壁面から抜落しやすいことはさけられないでしょう。つまり登っている人間が墜ちる可能性はどうしても高くなります。登りながらのプロテクション設置もそれだけむずかしいはずです。そこで身の安全をはかるためにプロテクションをどんな間隔で、どんな方法で設置したら良いのかが重要になってきます。
 リスクを承知で、登りながら、できるだけ数すくなく設置していくという伝統的路線にこだわってももちろん拍手喝采ですが、スポーツクライミングの枠組みに入れて安全性を重視し、プロテクションを必要なだけ事前に設置しておくのも手立てかと思います。このあたりはアルパインクライミングとスポーツクライミングとの間に現在ある暗黙の割り切りを、そのままスライドさせてもかまわないのではないでしょうか。
 最後のみっつめ。これがもっとも欠かせない前提です。ルートの可能性です。用具とプロテクションの準備が整ったとして、さてフッキングで登ることのできる氷ルートがなければ話になりません。まさかそんな重要な疑問をしっかり確かめもしないでこんな文章を書くはずもない、とお思いでしょうが・・・それがあるのです。


              
意識さえもてば


 ぼく自身、氷でのフッキングを試みはじめたのは事実上今冬からで、八ヶ岳山麓と霧積の氷柱、計4箇所16本のショートルートを登ってみたにすぎません(うちNHのみ使用6ルート。他は一部または全部に先人の打ち込み痕を利用。今のところすべてトップロープだが、テンションかかることは思ったより少ないので、用具の不具合より臆病の比重のほうが高い)。ほかにもアイスボルダーでちょろちょろ遊んでみることはありましたが、ただのそれだけです。つまり経験ともいえない覗き見でこいつを書いているしまつです。
 だからとうぜんアテにならないし、自信もないのですが,その頼りなさでつぶやけば、(マッチポンプみたいで恐縮ながら)フッキングルートを見つけるのはさほど簡単じゃないというのが、まあ現段階でのぼくの実感です。先人の打ち込み痕を利用するならともかく、取付からてっぺんまでNHだけで登りきるとなるとラインはいやおうなく限られてくるわけです。そこで実際にいま、まっさらの氷瀑、氷柱でフッキングを試みるとしたら、フッキングの途切れに打ち込みを一部まじえるなどしてルートをのばすケースもでてくると思うのですが,それだってけっこう曲がりくねったラインどりになりそうです。
 自然がつくりだした氷の造形とのぎりぎりの対峙から生まれるルートの屈曲は、ボルトラダーに似た直線的な打ち込みルートよりよほど緊迫した美しさがあるといえますし、また、容易には登れない氷瀑、氷柱の増加は、考えようによっては、いったんは開拓余地のなくなったアイスクライミングの財産がまたよみがえって増えたようなもので、けして悲しむにあたいしないでしょう。
 だいいち、フッキングルートを見つけにくいといっても、それはフッキングに対する現時点の技術と用具では,という大文字の但し書きがつきます。フッキング技術が向上し,用具が改良されるにつれて、打ち込み個所のフッキング化や、あるいははじめからのフッキングルートが増えていくことは、これまた岩でのフリールートを例に引くまでもなく明らかでしょう。打ち込み方式は人工登攀、フッキング方式はフリークライミングに対応しています。
 ささやかな自慢をすれば、先述したぼくの覗き見の範囲内でさえ、はじめは目に入らなかったNHがそのうちにはぼちぼち見えだしたし、ルートラインも、簡単じゃないにしろ、それなり読めるようになってきました。それとふしぎなのですが、当初はアックスをフックして引きつけたとたん氷角からはずれるということがままありましたが、このごろでは引きつける前に、シャフトから伝わってくる微妙な感覚だけで、それが利くかどうかあるていど判断つくのです。この成果は意外でした。こうした感覚の彫琢が、やがてぼくの体をごく自然なかたちでうっとうしくも頼りがいあるトップロープから解き放ってくれそうな気がして年甲斐もなくわくわくしていますし、人間能力の果てしなさとやらにわれながらあらためて感じ入ってもいます。
 それもこれも根っこは意識の問題なのでしょう。意識なんて欠けらもなかったその昔、今ではフリークライミング初心者のスタート点でしかなくなった難度VI級、そのレベル以上にだれもが、どんな優れたクライマーですら一歩も踏み出せなかったマカフシギを、ぼくらは昨日のことのように思い出すことができるはずです。
 静かなクライミングです。
 打ち込み音はなく、アイゼンを踏み込む小さな音と自分の抑えた息づかいだけが、凍てつく空間に流れます。どうやら、ぼくがフッキングに惹きつけられたきっかけは、なによりも、この、蒼い氷の世界にふさわしい、静けさだったような気がしています。

                                                       
2002.2 記

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