3月29日 ディンボチェを発ち、トゥクラ(Tukla, Tuglha, Duglha, 4600m)へ向かう。
目指すロブジェ・イースト


カルカ(牧場。石垣で囲われている)を突っ切ったりしながら、1.5時間程で到着。

トゥクラへ近づく



ストーブの周りには、ネパール語、シェルパ語、ライ族の言葉が入り乱れ、客もドイツ人、ニュージーランドの夫婦、僕たち日本人と多彩で、こちらは英語で話し込む。ニュージーランドの男性は声がよく通る上にとても話好きで、映画やオゾンホール(今、ニュージーランドはそれで苦しんでいるらしい)や各人が今まで訪れた場所、例えばドイツ人のリビアの砂漠紀行などの話で興味が尽きなかった。窓外の雪はしんしんと降り積み、明日のロブジェへの行程はどうなることか気をもまされた。

トゥクラから仰ぐロブジェ・イースト





ロッジの前で





3月30日 雪は夜のうちに止み、10時過ぎにゆっくりとロッジを後にしてトゥクラのきつい登りに向かう。

雪の晴れたロブジェ・イースト



ここはトレッカーがしばしば高山病にみまわれるところだ。僕たちはゆっくりと景色を楽しみながら登った。

ロッジを振り返る



登り終えたところにエベレストで亡くなったシェルパたちのチョルテンが林立する場所(Memorials to died on Everest)がある。




そこからクーンブ氷河の始まりになる。











クーンブ氷河を行くキャラバン





ロブジェ、イーストが近づく



ロブチェ(Lobuche, 4930m)への道が続いているが、僕たちはしばらく進んでロブジェ・イーストの方に向かった。道のない草地を崩壊した山の斜面目指して近寄っていく。

左手を目指す



山の麓には大きな岩がたくさん転がっている。この辺にもテントが張れそうだが、目指すBCはもっと上だ。

ヌプツェ・左7864mとローツェ・右8501m



がれた斜面の踏み跡をひたすら登る。

ベースキャンプ直下の登り



突き当たると、ちょっとした岩登りがある。雪を被っていやらしそうだったので、僕と池田は脇の雪のないIV級くらいのところを越したが、ガイドはポーターを伴ってノーマルな岩棚を上がっていった。ポーターのサンゲはドッコ(荷物を入れる竹篭で、頭に紐を回して担ぐ)に荷物を山盛りにしたままでこのいやらしい登りを見事に越えていった。

ベースが近づく




 13時前にBCに着く。岩の台地に雪解け水が流れたり溜まったりしている。立派なドームテントが3張り、ポーターテントが1張り、トイレテントまで備えたトレッキング会社の混合隊が撤収を始めていた。彼らは何日もかけてフィックスを張ったりしてこの山にチャレンジしていたのだが、ガイドがどうしても越えられない氷壁があるため、フィックスも回収できずに下山し、アイランドピークに転進するらしい。

ロブジェ・イースト ベースキャンプ




 彼らの幕営地が一番いい場所だったため、僕たちのガイドとポーターは彼らの撤収を手伝い、その後にテントを張り始めた。不安だったポールの一本がとうとう折れてしまった。ガイドは再び包丁で折れたところを削って何とかジョイント金具に差し込もうとしたが、竹のような素材のポールはささくれてしまってどうしようもなかった。僕は剣に持って行ったガムテープがそのまま残っているのを思い出したのでそれを差し出すと、ペグを添木にして何とか修復できた。
 テントに入って、「状況はそんなに悪いのか?」とガイドに尋ねると、「向こうの隊のガイドはオーバーハングした氷壁が越えられなかったのだ」と答えた。「では、僕たちも頂上に行けないのか?」「問題ない。我々は行けるよ。シュッっとね」彼は身ぶりを交えてそう答えた。
 夕方からガスが出て、夜には雪になる。夕食の時から頭痛がしてくる。高山病対策に利尿剤のダイナモックスを飲む。雪がテントを埋めるように降り、ガイドは時々内側から雪をたたき落としている。翌朝は2時半に起床、3時半にアタックということで19時頃就寝となるが、薬のせいか高度のせいか、なかなか寝付けない。雪の中、何度もトイレに立つ。池田は軽い鼾をかいて熟睡しているようだ。ガイドも良く寝ている。ポーターは時々咳をしているが、やはり眠っているようだ。結局、12時をまわっても眠りは訪れなかった。このままでは明日のアタックもだめか、と孤独な落胆を描いていたが、12時半ころに何とか眠りの淵に陥った。一時間と少しは寝ていたようだ。  

3月31日 2時20分起床。寝不足だが気分は高揚し、頭痛はおさまっている。ポーターは頭痛を訴えている。高山病にやられたようだ。ガイドに言われてダイナモックスをあげる。朝食はお茶だけにして、3時20分にアタック開始。

ロブジェ・イーストの登り




 ヘッドランプのあかりとケルンだけを頼りに、ロックバンドを登っていく。薄く雪を被ったスラブ状の岩が多く、真っ暗で周囲の様子もよくわからないため緊張する。すぐにガイドのランプは電池切れになっていて、不安は増大するが、彼は迷わずに登っていくのでこちらも付いて行かざるをえない。僕と池田はなるべくガイドの行く先も照らそうと試みる。

稜線からの登り リードするガイドのプラ




 稜線に出る頃に、空は白んできた。東の方、遠くマカルーが聳えその前にメヘラやポカルデが広がる辺りに薄く暁の光が射していたが、それは天空を覆っている雲の量が多いことも知らせてくれていた。天気はあまり芳しくないように見えた。

稜線上の池田




 まだ薄暗い中、雪のリッジをたどり、傾斜がきつくなるあたりでハーネスを装着してロープで結び合い、アイゼンを付ける。次第に夜が明けてきた。天空はクリアになっていく。

高度を稼いでいく





次第に明るくなっていく




 尖った雪が乱立する斜面を、息を切らしながら登っていく。先頭にガイド、次が僕、最後が池田。




池田は二つ目の6000mで順化がうまく行っているようだったが、僕は数歩登る毎に立ち止まってはあはあと息をつかねばならなかった。去年の夏のマッターホルンを思い出した。あの時もこんなふうに登っていったっけ。昨日の隊のフィックスロープが斜面に垂れているが、使うことなく高度を上げる。





 問題の被った氷壁に出会う。三メートル程度の高さだが、ガイドは手こずっている。アイススクリューをねじ込み、慎重に登ろうとしているが、ピッケル一本ではなかなか体が持ち上がらないようだ。「君のバイルも貸してくれ」

核心部を越えるガイド




 結局ダブルアックスで越えると、上にはスノーバーの残置支点があり、そこで確保体勢に入った。バイルを返してもらい、僕も池田のバイルと自分のとで乗り越す。思ったほど困難ではないが、この高度では息が切れる。池田も順調に登ってきた。






最後の急な登り




 さらに急斜面を登り詰め、8時にジャンクションピーク(6000m程)に立つ。

ジャンクションピークの私と池田



「みんなここまでしか登っていない」とガイドは登攀終了を告げる。その先には本物のピーク(6119m)が聳えており、僕たちはごく少数の人が登っていることを知っているが、いつも雪の状態が悪いため、多くの人はこの辺で終了としていることも承知していた。確かに行く手にはクレバス状に雪庇が浮いていて行くまでもなさそうだった。

リアル・ピーク




 水と軽いスナック類で食事をし、晴天の下、大きく開けた展望を楽しむ。エベレスト、ヌプツェ、ローツェ、マカルー、アマダブラム・・・。カラパタールも遥か下に望め、その続きからプモリがぐっとそびえ立っている。360度の風景をカメラに収め、この幸福を噛みしめる。

雲がたなびくエベレスト 8848m





プモリ 7165m





プモリ近景





アマダブラム





タウチェ、チョラツェ、アラカムツェ




 下りはさんざんだった。体力は使い果たし、足下はよろよろだ。一カ所、必要はなかったがせっかくだからとフィックスを使って懸垂下降し、ガイドは最後にフィックスを回収して降りてきた。雪を抜けて岩に入ると、僕のスリップが目立ってきたので、ガイドは「自分が持つ」と荷物を取り上げてしまった。それでもへろへろで足がもつれた。頭痛も始まった。2時間程でBC地に戻ると、既にポーターはテントを撤収してディンボチェへ向かっていた。ガイドが「ジュースがある。ここだ」と石塚を指さす。池田が石組みを崩すと、中からジュースのポリタンが出てきた。烏と風を避ける工夫だった。それで少し元気を回復し、麓の平坦な場所まで下る。
 トゥクラで食事を摂る。疲れがとれないうちにディンボチェへ。延々と重い足を交互に出し続ける。ガイドはここでレンタルした装備を返却し、僕たちは疲れた体を癒した。ポーターのサンゲは、「サンゲ・バブー」というニックネームが付いた。「バブー」は赤ん坊と、その父親を指すとガイドは笑いながら言っていた。ところでこのサンゲは、親の顔を覚える前に両親と死別し、兄弟もなく、10歳から既に荷物を運んで生計を立てていたらしい。タマン族の娘と結婚して3歳の女の子がいるが、彼女はシェルパを名乗っているとのこと。現在は、ルクラの空港を拠点にして、知り合いに出会うとポーターの仕事を回して貰っているようだ。苦労人なのである。

4月1日 疲労のためか、4時には目覚めてしまった。しかし熟睡していて目覚めはすっきりしていた。さあ、あとは下るだけだ。プンキの谷のロッジで昼食。テシンガで、行きに出会った池田の知り合いのシェルパのグリーンバレーロッジでティータイム。彼らはアルバムを眺めながら福岡での旧交を温めていた。その頃から雪が降り始める。雪の中、3時頃ナムチェに到着。ベーカリーでケーキとお茶でくつろぎながら、恩師などへ絵はがきを書いた(エアメイルで出したのに、日本に着いたのは三週間以上たってからだった)。夜はソナロッジで群馬岳連の本を読む。登山も終わったので、チャン(ネパールの醸造酒)をヤクのフライドミートを肴にあおる。

4月2日 タモ(Thamu)へ。半日のいいハイキングだった。午後はバザールを覗き、ショップでヤクのTシャツを買い、ベーカリーで時間を過ごすが、夕食まではまだまだ余裕があった。映画館もあったので、入ってみた。愛とアクションと復讐のロマンスものだったが、かなり冗長で退屈した。夜はやはりチャンとロキシー(蒸留酒。焼酎のようなもの)を飲みつつ本を読む。

4月3日 早朝ナムチェを発つ時、ロッジの人が白い布を首に掛けてくれて、シェルパ風のはなむけをしてくれた。パクディンでお茶、チョプルンで昼食。14時にルクラに着く。サウスコルガーデンロッジで軽くモモ(ネパール風餃子)を頼む。外に出ると、建設中の空港を見て回る。皆、働いてる、という感じでどんどん舗装している。揚げ菓子をテイクアウトして村はずれに腰を下ろして頬張る。目の前を色々な生活が流れてゆく。ちょっとした定点観察の気分だ。チーズを測り売りしてもらい引き返す途中で、ディンボチェで話をした20際のポーターに会う。彼は手に本を持っていた。「今、ポーターの仕事をしながら、空いた時期には大学で勉強している」とのことだった。「何をやってるんだい?」「経済学だ」「どこの大学で?」「トリブバン大学だ」「で、これからまた上へ行くのかい?」「ああ。またトレッキングだ」。ネパールの若い力をそこに見たような気がした。
 夕方、僕たちとガイドとポーターで、ビールで乾杯をした。それからトンバだ。トンバは発酵したシコクビエや米を容器に入れ、上から湯を注ぎ、下に溜まったアルコール分をストローで吸い上げて飲むもので、何度もお湯を足しては味わえる。一度で気に入ってしまった。ちなみに、これを絞った物がチャンらしい。
 ガイドは「明日の晩、うちにいらっしゃい。女房の手作りのトンバを用意しておくよ。ホテルの番号をスタッフに教えておいてくれ。夕方6時くらいに連絡するよ」と僕たちを誘ってくれた。

4月4日 早朝から空港へ行く。来た時とは逆に、パブルーへヘリで飛んで、イエティエアーの飛行機でトリブバン空港へ戻る予定である。が、なかなかヘリが出ない。ガイドはどういう手違いか、ヘリでジリまで飛んで、そこからバスでカトマンズへ行くことになった。ポーターとはここでお別れである。彼はさっそく次の仕事を求めて、到着したトレッカーを物色していた。
 昼にはカトマンズへ着く。迎えの車でコスモトレックへ行く。報告と清算。日本にいるときにメールで問い合わせた見積もりより、だいぶオーバーしている。内容はおおむね納得行くものではあったが。
 ガイドの日当はポーターよりも安かった。ポーターが400Rs/dayに対して、ガイドは$5/day、すなわち、340Rs/dayくらいである。ただし、個人装備費用として、$500が別途支給されていることになっている。保険も掛けてあるし、これらが大きいのだろう。ただ、僕たちはロッジやポーターや装備のレンタルを安くあげてもらったうえに、登山の成功もひとえに彼のおかげだという気持ちから、エクストラフィーを払うことにした。
 マナスルホテルに投宿。近くのロイヤルハナガーデンでインド風のカレーで昼食。ここは15時以降は露天風呂がオープンし、あんまもあるらしい。角のスーパーで下着などを買い、部屋に戻ると三週間分の垢を落とした。それからタメル地区に出てレンタルの羽毛服を返し、本屋で買い物をする。
 夕方、ガイドからの連絡があるかと部屋で待機していたが、21時を過ぎても音沙汰がなかった。とにかくホテルの食堂で夕食をとって、その日は寝た。  

4月5日 早朝からカトマンズ観光に出る。ネパール最大のチョルテン(仏塔)であるボダナートを一周する。それからこれもネパール最大のヒンドゥー寺院のパシュパティナートにおもむき、火葬をしているのを見学する。その後、おみやげのセーターや紅茶を買い、旧王庁のあるダルバール広場からタメル地区に抜けて昼食を食べ、ガイドの連絡があるかも知れないと言うことで17時半にホテルで落ち合うことにして自由行動にする。
 夕方、ガイドと落ち合って近くの彼のアパートメントへ。炊事とトイレは共同のようだが、ちゃんと衛星テレビや冷蔵庫はあった。子どもは学齢期になってないが既に学校にやってる、とのことだった。彼の生活はおそらくネパールでもかなりいい方なのだろう。チャーミングな奥さんのトンバ、ダルバートなどでもてなされ、小さな男の子二人の相手をしたりする。池田は特に小さな子どもが好きだった。別れ際に感謝の気持ちとして「多くはないけど」とエクストラフィーを手渡した。
 しかし、彼のもてなしはどこまでが個人的なものでどこまで商売がはいってるのだろう、という哀しい推測も僕たちの心に芽生えた。こんな疑いは持つべきではないのだろうか・・・。  

4月6日 ガイドが自転車の二人を連れてやってくる。荷物を先に空港に運んでくれるのだ。僕たちはガイドと三人で、ゼネストのため車のいない朝のカトマンズを空港へと歩いた。普通なら通らないような下町や裏町を通った。人々は皆歩いており、とても落ちついた散歩を一時間続けて空港に着いた。ガイドはここでも白い布を掛けてシェルパ風の別れをしてくれた。このゼネストによって、ネパールの西部では警官が十数人、テロで亡くなったそうだ。

4月7日 深夜にバンコクでトランジットして、早朝福岡空港へ。

 結局、費用は航空運賃も含めて、一人当たり¥355,295となった。大まかな内訳は、航空運賃が11万、エージェントへの支払いが16万、あとは滞在費である。日本の有名な山岳専門旅行社手配だと航空料金込み25日間アイランドピークで約65万円かかる、という情報もあるので、これは安く上がったほうではないだろうか。現地のエージェントとE-mailで直接交渉したことと、ガイドが僕たちの意図を汲んで安くあがるように計らってくれたことが大きいと思う。









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