中国横断山脈:未踏の野人峰、敗退の記



 2010年の夏、六回目の中国四川省横断山脈遠征は、九大山岳会60周年記念登山の一環として行われた。かねてから憧れつつ見上げていた、1,000mを越える岩壁を擁する野人峰(セエルデンプーあるいはバーバリアンピーク、5,592m)に、ついに挑む時を迎えた。7月中旬に大内尚樹、米澤弘夫、妹尾佳明、室屋博の先発隊が現地入りし、双橋溝の支流の大溝の源流の未踏峰を登り、7月末に大内と入れ替わりで入山する私と合流して、野人峰に登る、というものだった。
 王さんの民宿、双橋渡河村で大内さんと合流して情報交換をした後、私はベースキャンプに向かったが、やはり高度障害で体調不良となり、一度は数百メートル下った観光地で半日を過ごしたが、やはりすっきりとは抜けず、天候不良を機会に、再び双橋渡河村で一泊して登り返した。その間に、妹尾はソロで3ピッチ分のルート工作と荷揚げを行った。
 8月5日、長友、米澤、妹尾の三人が揃って取り付く。ラインは落石の可能性の少ない北面の尾根状の上にそびえ立つバットレス(これは「イエティの鼻」と呼ばれているらしい。高度差1,500m以上)である。ベースキャンプ(3,780m)から200mガレ場を登り、岩屋でデポを回収、身支度を調える。少し登って、ほぼ4,000m地点から取り付き。
 1P目は、スラブとガレのIV級(妹尾)、2P目もスラブとガレのIV級(妹尾)、3P目はチムニーからルンゼ 5.9 (妹尾)。この日はそこから延ばして、4P目は凹角をハング下まで 5.9 (米澤)、5P目はカンテに出て草付きスラブから草付き凹角 5.9 (長友)、そこからしばらく米澤が登ってビバークサイトなど確認していると、小雨が降ってきたので、下降を開始。翌日は沈殿だったが、妹尾は荷揚げのため再び登りに戻り、6P目の前半を米澤が登ったラインを延長してデポして降りてきた。III級くらいか。ベースの長友、米澤は特注のソーラーパネルを使ってバッテリーの充電に励んでいた。
 8月7日、天気が雨期型から夏型になったのか、午後から決まって雲が湧いて夕立に。取り付きの岩屋まで上がって天候をしばらく観察してから、フィックスなどを使って登り直し、更にピッチを延ばした。7P目は凹角からフェイス IV級 (長友)、8Pはフェイスから凹角 5.9 (米澤)、9P目はフェイスからリッジ 5.8 (長友)、10Pは凹角からリッジの頭へ 5.9 (長友)。リッジの頭にはテントが張れる広さがあったが、落石を恐れて、9Pの終了点に張ることにした。妹尾は荷揚げに徹してくれた。11P目はスラブ 5.10b A0 (長友)。このピッチでチャンピン溝からの積乱雲も発達してきていたので、ビバークの準備は十分であったが、後の事も考えて一旦ベースキャンプまで下降することにした。取り付きに戻る頃には霰が降り出してきた。夜は激しい降りになった。

8P目の長友(妹尾写す)

 8月10日、今度こそビバークの決意を固めて取り付く。12P目をボルトやハーケンを使ったエイドで長友が延ばし、終了点を打って米澤に交代した。18時前で、もう夕闇が近づいていた。米澤が13P目の数メートルをリードしていた時、落石が降ってきた。
 私の頭には、煉瓦半分の大きさの岩がバウンドして落ちてきて、ヘルメットに穴を空けた。セルフビレイはしっかりとっていたので転落はなかった。しばらくは衝撃で事態が把握できなかったが、米澤の「ビレイ解除」の声はしっかり理解でき、即座に行動に移した。着ていた黄色い雨具が赤く染まった。後でわかったことだが、脳挫傷、頭蓋底骨折、左手の人差し指と中指の骨折を被っていた。サポートを受けながら懸垂下降で滑りつつ下り、10P目の終了点のテラスに戻った。ここで米澤が付き添い、妹尾は救助を呼びに下降した。

野人峰ルート写真(米澤作成)黄色い点がピッチ終了点、赤い点が落石遭遇地点

 テラスで私は米澤の羽毛服を着せてもらい、ツエルトをかぶって横たわった。痛みはひどくなかったが鼻血が止まらず、食欲もなく、水だけ飲んで、10分おきくらいに赤っぽい胃液を吐いていた。「このまま眠ったら、明日の朝は目が覚めないかもしれんな。死を迎えるということは、ただそれだけの単純なことなのか」と思いながらいつの間にか眠りについた。しかしひっきりなしに目が覚めていたようだ。米澤も、私が静かになると、息が途絶えたのではないかと思って、声をかけ続けてくれていたらしい。
 最初はヘリが飛んでくれると思っていたが、標高が4,800mもあるため、その期待は空しかった。妹尾の連絡によって、大溝のベースに入ったばかりのYCCの船山和志、佐野耕司、平松一平の面々が救助に向かってくれていた。二日目の朝、無事に目覚めた私は、時々振ってくる落石を避けるために、9P目の終了点に張ったテントに降りることを提案した。ふらつく頭と、開くと痛みを感じる目と、疲弊した体で、米澤の補助を得ながら体全体を滑らせるような懸垂下降でテントに降りた。そこでもう一泊、つらい夜を過ごした。
 三日目に妹尾とYCCの佐野、平松が到着した。船山は登ってくる途中で落石にあって一旦下ったらしい。妹尾に負ぶさり、他のメンバーのサポートで下降を開始。弱点をついた歪曲した登りのルートをとらず、新たに直下降できるルートを作りつつの下降だった。
 取り付きに降りると、村の人々が交代でベースキャンプまで負ぶってくれた。そこで船山ドクターに応急で診てもらい、更に麓の道路に待機していた救急車に運ばれた。船山、平松が同乗してくれた。一日がかりで四川大学医学部付属病院に搬送され、傷の処置やCTなどの検査を受けた。メンバーやスタッフが見舞いに来てくれた。しかし船山ドクターは、感染症の処置が日本のやり方と違って不安があると述べ、出来るだけ早く帰国することを提案してくれた。そこに二泊して、ふさがっていない頭の傷口に絆創膏だけ貼って、船山ドクターの同伴で、一番早くとれたエコノミーで頬杖をついて眠りながら、成都〜上海を経て名古屋そして熊本へと向かった。後に、2008年に四姑娘山南西稜を登ったチャド・ケロッグ、ダイラン・ジョンソン(米)のコンビが翌9月に北東稜から初登頂したことを知った(『ROCK & SNOW』50号、山と渓谷社、2010年12月、53頁、参照)。「イエティの鼻」は現時点では未踏であるようだ。

 追記:今回の登山では、多くの皆様にご迷惑・ご心配をおかけしました。ここにお詫びと感謝の意を表します。

野人峰(セエルデンプー、あるいはバーバリアンピーク)周辺図



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