唱歌「桃太郎」の「あげましょう」について


「♪桃太郎さん桃太郎さん お腰につけた黍団子(きびだんご) 一つわたしに下さいな♪」

 この次の歌詞が、「あげましょう あげましょう」なのか、それとも「やりましょう やりましょう」なのか、議論されることがあります。少し考えてみましょう。

   「犬・猿・キジは動物で人間よりも目下(めした)なのだから、敬語を使ってはいけない。『あげる』は謙譲語という敬語の一種だ。従って、敬語ではない『やりましょう』が正解だ」という主張があります。しかしこれは正しくありません。

 というのも、「あげましょう」も「やりましょう」もどちらも敬語だからです。「やろう」なら敬語ではありませんが、それに丁寧の助動詞「ます」をつけて「やりましょう」とした場合は、丁寧語になってしまいます。これもまた敬語の一種です。

 また、「動植物には敬語を使ってはいけない」という考え方自体にも、見直しが求められています。文部科学省の文化審議会の平成19年の答申「敬語の指針」では、「現代社会は、基本的に平等な人格を互いに認め合う社会」なので、敬語も様々な立場の違いを認めつつも「相互尊重」を基盤として使用されるべきであるとしています。また、植木に水を「あげる」のか「やる」のかの選択は、「あげる」が謙譲語だけでなく美化語にもなっている現状や、言葉遣いに反映される意識の多様性などを吟味しながら、画一的な枠組みによらずに、いずれも慈しみ育てる気持ちの「自己表現」として選ぶ姿勢が必要だ、ともされています。お世話になっている介助犬や、家族の一員と認めているペットに対して、「エサをやる」のではなく「ごはんをあげる」と呼びかけても、敬語の誤用とは言えないということでしょう。

 さらに、意外かもしれませんが、そもそもこの唱歌「桃太郎」には動物も人間も出てきません。「犬・猿・キジは動物だし、桃太郎は人間では?」と思われるでしょうが、それは表層的な見方です。実際にはどちらも「人格」であり、互いに尊重し合う関係にあります。

 哲学における「人格」概念は、ホッブズ(Thomas Hobbes, 1588-1679、英)の場合、契約を結ぶ主体です。また、ロック(John Locke, 1632-1704、英)によれば、自己意識の主体です。さらにカント(Immanuel Kant, 1724-1804、独)は、理性を持ち意思に従って自由に選択できる自律的な存在と考えています。そして、いずれの定義も、適用範囲を「生物学的に人間であること」に限定していません。ドラえもんもミッキーマウスもキティちゃんも、要件を満たせば「人格」なのです。ホッブズは国家や団体も契約の主体ならば人格として扱えるとしています。これが「法人」です。

 さて、「桃太郎」の歌詞の「犬・猿・キジ」は、言葉もしゃべるし、自由な選択によって、きびだんごと引きかえにお供になる契約を結んでいます。すなわち、りっぱな「人格」なのです。では、「桃太郎」はなぜ人間ではないのでしょうか。桃から生まれたからです。しかし彼もまた「人格」の要件を満たしています。この歌詞には、人格どうしの交流が述べられているので、敬語を使って、ともに尊重しあってよいと思われます。


 なお、オリジナルは1911(明治44)年の『尋常小学唱歌(一)』という教科書の一曲で、その歌詞には「やりましょう」が使われています。作曲者は岡野貞一ですが作詞者は不詳です。個人的著作品にならないように合議制の作品集として編纂され、著作権は文部省に帰属したということです。芸術作品というよりは、教育に資することが意図された教材の色彩が強いようです。原曲のリズムは既に変化を遂げ、当初は等拍だったものがピョンコ節に変わっているようです。歌詞の方も、現在の一般的な言葉遣いの学習のために「あげましょう」とすることが、教育という制作の意図にかなうのではないでしょうか。

 他にも、1910年『尋常小学読本唱歌』初出の「蟲のこゑ(むしのこえ)」(林柳波作詞、井上武士作曲)は1932年の『新訂尋常小学唱歌』では2番に出てくる「きりぎりす」が「こほろぎや」に改められています。「きりぎりす」がコオロギの古語で、「きりきり」もコオロギの鳴き声を表現したものであるためです。ちなみに、1923年(大正12年)に歌詞が発表された「どこかで春が」(作詞:百田宗治、作曲:草川信)も「東風(こち)吹いて」が「そよ風吹いて」に変わり、「かえるの合唱」(作詞or訳詞:岡本敏明 / 作曲:ドイツ民謡)も「ケケケケケケケケ」が「ケロケロケロケロ」と変わっています。
(K. Nagatomo)


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