小泉八雲 「石仏」より


小泉八雲作品集 第7巻 恒文社 1964年 pp.170-173






 官立高等学校のうしろにある丘のてっぺん──小さなだんだん畑がずっとなぞえになってつづいている、その上のところに、むかしからある村の墓地がひとくるわある。この墓地は、げんざいでは、すでにもう使用されていない。黒髪村の村民たちは、いまでは、そこよりももっと奥の方にある地所の方へ、死人を埋葬しているのである。そんなわけで、この古い方の墓地は、げんに、そろそろ周囲にある畑地から地境を侵蝕されはじめているもようである。
 ある日、授業時間が、ふた組のクラスで一時間ほどひまがあいたので、わたくしは、この丘のてっぺんへ登つてみることを思いたった。わたくしが登っていくと、まっ黒けな、人にはけっして害をしない小さな蛇が、にょろにょろ道のさきを切ったり、枯れっ葉とおなじ色をした無数のイナゴどもが、わたくしの影におどろいて、ざわざわと飛び出したりした。畑のなかのほそい小みちは、まだ墓地の入口のこわれ朽ちた石段のところまで行かないうちに、早くもおどろな野草のかげに見えなくなっていた。かんじんの墓地のなかにも、道らしい道はどこにもない。ただ、雑草と墓石とがあるばかりである。しかし、丘のてっぺんからの見晴らしは、なかなかいい。ひろびろとした万緑の肥後平野が一望のうちに眺められ、そのむこうに、青い、 ゆったりとした山脈が、半円形をなして、遠い地平線の光りのなかに映え、そのまたむこうには、阿蘇火山が永遠の噴煙を吐いている。
   脚下には、さながら鳥瞰図でも見るように、近代都市の縮図のような学校が見えている。すベて一八八七年式の、窓のたくさんついた、長蛇のような建物だ。どこを見ても、十九世紀の実用一天張りの建築を代表している建物である。これをこのまま、ケントや、オークランドや、 ニュー・ハンプシャあたりにもって行っても、すこしも時代のずれを感じるようなことはあるまい。ところが、その学校の上の台地にあるだんだん畑と、そのだんだん畑で働いている百姓たちのすがたは、これはどう見ても、紀元五世紀のしろものだといってよかろう。わたくしが寄りかかっている墓に刻んである文字、これは古い梵語を音訳にした文字だが、そのすぐそばのところには、蓮華の花のうえに坐している仏像も一体立っている。この仏像は、加藤清正時代から、ここにずっとこうして坐っているのであって、じっと瞑想にふけっているようなそのまなざしは、はるか脚下の学校と、その学校のそうぞうしい生活とを、半眼にひらいたまぶたのあいだから、しずかに見下ろしながら、身に創痍をうけながらも、なにひとつ、それに文句のいえない人のような、完爾とした微笑をたたえている。もっとも、この微笑は、もともと、これを彫った彫り師がきざみつけた表情ではない。長い年月の風霜の、苔と垢とに形をゆがめられてできた表情である。よく見ると、この仏像は、いまはもう両手も欠けてしまっている。わたくしは、なんだか気の毒になってきて、仏像の額にある、小さなしるしのイボのまわりの苔を、爪でかいてとってあげたらと思って、手でそれをかいてみた。古い「法華経」の文句をおもいだしながら。──

「爾の時に仏、眉間白毫相の光を放ちて、東方万八千の世界を照したもうに、周遍せざること靡し。下、阿鼻地獄に至り、上、阿迦尼咤天に至る。此の世界に於いて、尽く彼の土の六趣の衆生を見、又、彼の土の現在の諸仏を見、……」



 日はしりえに高く、眼前にある風景は、さながら日本の古い絵本にあるとおりである。いったい、日本の古い錦絵は、物に影がないということが原則になっている。いま、このびょうぼうたる肥後平野も、万物ことごとく影なく、一望、したたるばかりの緑の色をひろげながら、遠く地平腺まで相つらなり、はるかその地平のはてには、青い山脈が強烈な光りのなかに、ぽっかりと浮き上がったように見えている。けれども、この見わたすかぎりひろびろとした平野 は、けっして、ただいちようの緑いろに塗りこめられているわけではない。あらゆる濃淡・粗密の緑の色調が、あるいはそのかたち帯のごとく、あるいはそのかたち色紙のごとく、あたかもいっぽんの絵筆で、いくどか色をなすりでもしたように、色と色とが、たがいに相交錯しあっているのである。その点でも、ここから見る眺めは、日本の古い絵本のなかに書いてある風景に、ほうふつとしている。……







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