ネパール高所遠足
−アイランドピークとロブジェ・イースト−


メンバー:長友敬一、池田祐司

日程:2001年 3月15日〜4月7日




 冬の剣岳から、この山行の計画は何となく出来ていった。目標の山を決めると、エージェントへの依頼にはE-mailを使った。細かい問い合わせが気軽に出来て、これはかなり便利だった。尚、この時点での1Rs(ルピー)は約¥2、1$は約¥120である。

3月15日 福岡空港発。バンコク一泊。
バンコクの屋台でカレー 美味




3月16日 昼過ぎにカトマンズ着。日本から依頼していたコスモトレックを訪れ、ガイドを紹介して貰う。彼はプラ・チェリ・シェルパという名で、8000m峰をもう何座も登頂している。エベレストも南峰まで行き、本人は元気だったが病気の隊員を降ろすために下ったそうだ。8000mの高度でも酒も飲んでいたらしいし、僕たちの目指すアイランドピークもロブジェイーストも何度も登っている。計画書を見ても、トレッキング会社の人は「三週間で二座は不可能でしょう」と言っていたが、ガイドは「大丈夫、行けます」と快く引き受けてくれた。タメル地区で散策がてら羽毛服をレンタルした。一人40Rs/dayで、二人分のデポジット代が100$。


カトマンズ タメル地区の街中









3月17日 早朝のイエティ・エアーの双発機で飛ぶ。


ルクラが改修工事中のため、砂埃の舞うパプルーの飛行場で重工のヘリに乗り換えた。





 ルクラ(Lukula, 2804m)の飛行場はアスファルト舗装と管制塔の新築工事が行われていた。サウスコルガーデンロッジに入る。ガイドは要所要所に知り合いのロッジがあるようだ。おかげで旅費が若干安く上がることになる。昼食を採っている間に、ガイドは現地のポーターを雇った。通常は最低でも二人雇うことになるのだろうが、僕たちの荷物はヘリの重量制限に合わせて個人装備のみで二人で30Kg弱なので、ポーターは一人にしたようだ。名前はサンゲといって、彼もやはりシェルパ族だ。共同装備は「ベースキャンプ近くのロッジで借りられる、問題ない」とガイドは保証してくれた。昼からいよいよトレッキングに出発する。
ルクラの町並み



 ルクラから丘の道を下っていくと、ラリグラスの花がちらほら咲き始めていた。聖なる巨大な樫の木(Big Sacred Oak Tree)が行く手に亭々たる姿を見せている。


噂に聞くマニ石が街道の上に次々に現れる。しきたり通り、向かって左を、時計回りの要領で通過していく。


マニ車のあるお寺


パクディン(Phakding, 2623m)のタシタキロッジに落ちつく。かまどが懐かしい雰囲気だ。寝袋は必携。池田はさっそく裏山のゴンパ(チベット教の寺院)に行ってみる、と斜面を歩き出した。僕はロッジ周辺で休養することにした。
パクディンの子供達





 ゴンパのこと(池田祐司)
 対岸の集落のやや上にはどうも別の集落がありそうで、また、さらに上にはゴンパが見える。高度順応のため言うことでもないが、ゴンパまで登ってみた。街道の上の村からはまだ踏み固められていない真新しい道を登り、10分ほどでゴンパにつく。途中から一緒になった青年僧に誘われて中に入り、本尊に参拝させてもらう。寺の庭は増築でもするのか材木を削る作業場になっていて、少年少女の僧?が数人作業していた。この寺のさらに上にもゴンパがあり、青年僧に誘われるままに行ってみる。5分ほどでつくが、鍵を村人が持ち帰っており本殿は入れなかった。代わりに青年僧が彼の部屋に招いてくれる。彼の名はパサン・シェルパ。下の村の出身で、親兄弟を幼くしてなくし、今は寺に住んでいる。ラマが香港に行って不在の現在、寺を任されているようだった。4,5畳ほどの部屋には小さな竈と2つのベットがある。ホットレモンをごちそうになり、カトマンズ、ルンビニなどに行ったときの写真を見せてもらいながら話す。しかし、僕の乏しいネパール語では二人とももどかしく、深い話はよくわからなかった。帰りには薄暗くなった雲の切れ間にはタムセルクが見え隠れしていた。





 トレッキング最初の夜は、ガイドとの話が弾んだ。特に池田はネパールについての民俗学的関心が高く、また過去の長期短期の幾度かの滞在で話題もあれば簡単なネパール語も操るため、ガイドと打ち解けて盛り上がっていた。ガイドは今日乗り換えをしたパプルー空港の近辺の村の出身で、兄弟が多く、皆ガイドをしていてよくエクスペディションに参加しているらしかった。ネパールでのソシアリストやマオイスト(毛沢東主義者)のこと、村々にいるジャンクリ(一種の女性のシャーマン)のこと、カーストの違いのことなど、興味深い話題が尽きなかった。また、クーンブエリアはドイツ人も多かった。一番多かったのがドイツ語圏の人で、次が日本人だったのではないだろうか。マナスルエリアになると、イスラエル人が多いらしい。何故なら、マナスルエリアの方が物価が安いので、イスラエル人はそちらに重点的に行くからだそうだ。この日もロッジでドイツ人の二人連れと行程について話した。彼らとはチュクンまで前後することになる。
チュモア




3月18日 銃を持った兵士の駐屯しているジョルサレ(Jorsale)の関所(チェックポスト)で国立公園入場の手続きを済ませると、遥か彼方にクーンビラ(Khumbui Yui La, 5761m)が聳え、その手前の小高い丘を回ったところが本日の目的地ナムチェ(Namche Bazaar, 3440m)である。きつい登りも、以前の細い山道ではなくなっている。途中で初めてエベレストが垣間見えた。
 高く聳えるコンデ・リ(Kongde Ri,6187m)の谷を挟んで対岸の斜面にナムチェの家並みが広がっている。
ナムチェ


ナムチェではソナロッジに。
ロッジの干し肉


ターメ(Thame)から電気を引いており、夜はかなり明るい。また、個室にも明かりがあった。電話もテレビもある。電話は共同の衛星アンテナがシャンボチェの滑走路の側に立っているとのこと。テレビアンテナは各ロッジの横に衛星パラボラアンテナが備わっており、BBCも受信できる。
ナムチェの町並み



 午後から高度順応のため裏山に登る。
途中のゴンパ(お寺)のマニ石


池田はこの日が一番苦しかったようで、かなりスローペースで登っていた。シャンボチェ(Syangboche, m)の飛行場往復。雲の切れ間から西日を浴びたタムセルクの頂が荘厳な姿を現す。

3月19日 ガイドに連れられ、高度順応のため、裏山を登りヤク・ファームの横を越えてクムジュン(khumjung, 3763m)を訪れる。皆、快調。村の背面にはクーンビラが、遥か向こうにはアマダブラム(Ama Dablam,6856m)が屹立しており、思わず眼を見張る。クムジュンの隣村は、池田の恩師の小林先生(旧九大、現阪大)が滞在していたクンデ(Khunde)。ここのゴンパまで登る。
 昼からはナムチェを散策。ベーカリーでアップルパイとチョコドーナッツを食べながら絵はがきを書いて郵便局に出しに行った。ここでは必要なものは何でも揃う。日用品、登山用具などなど。


その他、映画館もあればバーもディスコもある。バザールも覗いてみた。チベットなどから商品をはるばる運んできた人たちが地面に敷いた敷物の上に衣類や雑貨を広げている。店主達はサイコロの丁半博打のようなことをやったりしておおらかに時を過ごしているように見えた。夜は群馬岳連のサガルマータ南西壁冬季初登のビデオを見せていただいた。僕たちトレッカーからすれば、全く超絶した世界だった。
多くのトイレでは紙は流さず缶に




3月20日 早朝、丘の上の国立公園博物館やシェルパの博物館を訪れる。山火事の大きな煙も見えた。山腹を走る道の下の方に、焼け跡が何カ所も広がっていた。途中、福岡での「よかトピア」に訪日されていた池田の知り合いのシェルパのラクパさんが、スコップを持って偶然通りかかった。二人は久しぶりの再会を喜んでいた。彼はまだくすぶっている火事に対処するために現場に向かっているところだった。
 ヤクやゾッキョのキャラバンの一隊に捕まり、同じペースで谷間のプンキ(Phunki)まで向かう。キャラバンはエベレストへのエクスペディションの荷揚げである。今季は遠征は全てエベレストに集中し、十数隊が入山するとのこと。しかし、本当に埃っぽい。谷を降りきった所にあるエバーグリーンロッジにて昼食。タンボチェ(Tengboche, 3867m)の登りもかなり応える。午後からはガスの中になり、アマダブラムは残念ながら見えなかった。有名なゴンパは以前焼け落ちたために現在は新しいものが建っている。子ども達が布のボールでサッカーのようなことをして遊んでいた。
 丘の上のタンボチェよりも、先に進んで少し下ったデボチェ(Dewoche, 3770m)のアマダブラムガーデンロッジに入る。


この辺りから上は中国製のソーラーパネルを用いて電気を得ている。ミニコンポからは初めアバの曲が流れていたが、そのうちにネパールの歌に変わった。若いポーター達がその周りでトランプをして暇を潰していた。


夕方、小雪になってきた。今年は冬季に雪が少なく、3月終わりの安定しているべきこの時期が午後からガスになったり雪になったりと不安定で、いつもと違う気象条件だった。僕はこの日のトイレで冷え込んだせいか、どうやら風邪気味になってしまった。不覚とや言うべきである。

3月21日 陽光の中、雪をうっすら被った道をたどる。パンボチェ(Pangboche, 4252m)付近のロッジでお茶をしていると、カラパタール方面から下ってきた日本人の女性に会う。「ここ随分日本人と話してないんです。ちょっとお話ししてもいいですか?」と懐かしそうに話しかけてきた。彼女は高山病のために一旦デボチェまで戻るとのことだった。「回復したらまた上を目指します」と言っていた。
 カラパタール方面への分岐まで、ヤクやゾッキョのキャラバンと同じペースで進む。


昼前にディンボチェ(Dingboche, 4350m)へ。


西に間近くタウチェ(Tawche, 6542m )、北東にはローツェ(Lhotse, 8516m)、その手前に目指すアイランドピーク。
丘の上から望むディンボチェ


ヒマラヤンロッジに入る。


午後は池田と高所順応のために裏山のゴンパまで登る。登るにつれて、すぐ南東に覆い被さるように聳えているアマダブラムが近づいてくる感じだ。ゴンパの脇に座って水を飲みながら見惚れていると、ゴンパの老僧が顔を出した。この日は200m程度の登りだったが、風が冷たく、池田、長友ともに疲労が大きかった。僕は少々頭痛が起こり、下りると調子を失ってしまった。頭と腹の不調に加え、少々吐き気も催しがちだった。池田が医者に貰ってきていたPLを飲んでぐったりしていた。トイレに起きる度に水分を採った。
タウチェ6542mとチョラツェ6440m




3月22日 高所順応のため、裏山のナガルサンピーク(Nagartsang Peak, 5083m)へ登山。ロッジから2時間半くらい。息はきついが調子はよい。昨夜の風邪薬が効いたのかも知れない。僕にとっては初めてのアッパー5000mだ。頂上はガスで、しばらく居たが眺望は開けなかった。昼前に下ってくると雪が降りだした。昼食後2時間ほど昼寝して池田が持ってきた谷崎潤一郎の短編集を読む。ストーブのそばではポーター達が賭トランプをやっていた。ガイドはここでテントやスノーバーを借り出していた。

3月23日 2時間ほど歩いて、チュクン(Chukung, 4743m)のアマダブラムビューロッジへ。アマダブラムは更に異なった相貌を見せている。
アマダブラム


アマダブラム氷河のヒマラヤ襞


午後から池田は裏山の5400mあたりまで登って高所順化。僕は100mほど登って下りてきた。とにかく調子が悪い。
ディンボチェのチョルテン(仏塔)




3月24日 午後からアイランドピークのBC(ベースキャンプ)に行く日。ガイドがメインロープやフィックスロープを借り出して点検していたのを手伝い、調子が戻ったので、午前中に池田と裏山へ。高所順化を無理にする必要もなかったのだろうが、調子が良かったので昨日の遅れ(?)を取り戻そうとした。結局、チュクン・リ(Chukhung Ri, 5550m)までの高差700mを登ってしまう。素晴らしい景色。間近にアマダブラム、東から北にかけてはアイランドピークとローツェ、遠くマカルーも望めた。しかし二人とも疲れたのも事実で、軽い頭痛に襲われた。
アイランドピーク



 ロッジで昼食後、休む間もなくBC(5150m)へ向かう。初めの登りが、さほど大きいものではなかったが、結構応えた。後は上下混じりのだらだらとした行程で、アブレーションバレーを横切って進んだ。とにかく遠かった。3時間でベースに到着。風が強く寒い。テントを張ると、二人ともダウンした。僕のシュラフに二人で足を突っ込み、横になる。
 夕食時に、池田は回復していたが、僕は不調のまま。頭痛。翌朝は2時起きの3時出発ということで就寝したが、僕の脈拍は100/minを超え、とても息苦しい。更に、テントの中はロッジよりも暑苦しかった。このまま眠ると朝には死んでいるのではないか、といった不安がよぎって、呼吸困難を心理的に煽る。結局ほとんど眠れず、不調のまま朝を迎えた。

3月25日 早朝、どうするか相談した結果、池田ややる気満々のガイドには悪いが、結局延期して貰うことにした。チーム登山なら池田一人でも登頂すればそれで成功、ということになるのだろうが、今回の目的は個人登山であり二人が登ることなので、このような決定になった。明るくなってチュクンへ下る。ガイドは、本当はディンボチェがいいのだが、とのことだったが、遠いし、再起もしやすいし、症状も頭痛だけで、しかもさほど重くはなかったので、チュクンでなんとかなるだろうと思っていた。
 2時間半でチュクンへ下る。昨夜のテントが暑かったせいと過労からか、風邪も併発しているようだ。あるいは以前からの風邪が抜けきっていなかったのかもしれない。夕方から雪とガス。PLがなくなったのでパブロンを飲んで寝た。

3月26日 朝、少し頭痛。ステイすることにする。一日、食事とトイレ以外は寝て過ごす。アジアの真ん中の山小屋のようなロッジで、エベレストやローツェやアマダブラムに挟まれて、ぼんやり横たわり、時に夢の中に入る。悲惨なのか、贅沢なのか・・・。池田は午前中、再びチュクン・リへ登ったとのこと。この日も一日ガスが湧いて近くの斜面も雪で白い。まわりにほとんど樹木もないこのロッジのストーブには、踏み固まった地衣類(現在では禁止されているらしいが)やヤクのフンを投げ入れ、ケロシンを注いで火を付けて暖をとっていた。 

3月27日 まだ頭痛が抜けない。PLは効いたが、どうも市販薬は効きがわるいのだろうか。出発を9時に延期して貰い、パブロンとダイナモックスを飲んで横になる。池田に「顔が腫れてるようだ」と言われる。それとは別にガイドも「腫れている」と言ったので、アタックは無理だと判断して、ガイドに付き添われてディンボチェに下ることにした。いい天気の下、1時間で着く。
 アイランドピークを登れないことは悔しいが、まだロブジェ・イーストが控えている。そちらに備えるしかない。ディンボチェのヒマラヤンロッジは陽が当たりぽかぽかして気持ちがいい。ここの庭のテーブルでひなたぼっこをしながらアイランドピークを眺めるのも、そこに登るのも、結局は自己満足の世界でしかない。
 ガイドは再びBCまで登り返す。池田は既にポーターとBCに向かっている。そこでガイドと合流して明日のアタックに備えることになる。うまく行けばいいが。明日の夕方にここで合流の予定になっている。
 ディンボチェでは脈拍は60/minに戻っていた。もっと早く、たとえば一昨日のうちにここまで下っておくべきだった。BC〜チュクンと中途半端に300m下ったが、高山病の解消どころか、かえって悪化に繋がっていたようだった。やはりセオリー通り、一気に1000m近くは下っていれば、回復の後、アタックも可能だっただろう。タクティクスの未熟さを痛感した。しかし、あそこで膨らんだ顔のまま無理にBCに行かなかったのはせめてもの救いであった。
 夜はストーブの周りで、センチュリートレックというエージェントのポーター達(彼らの客は明日ここに着くらしい。17〜21歳くらいだったが、皆もっと若く見えた)と、かたことで絵を使ったりして話した。このような旅の楽しみ方もあったということに初めて気づいた。今まで夜中は頻繁にトイレに起きていたが、この日は一度も行かなかった。夢見もよく、ぐっすりと眠れた。

3月28日 爽やかな目覚め。本当に早くここに降りてくるべきだった。鼻は少しぐずっている。午前中は二度目のナガルサンピーク。天気は上々。池田が今頃登頂しているに違いないアイランドピークも晴天に包まれている。今日は頂上にも途中にも人が多い。しばらく頂上の岩に寝そべる。昼はロッジで、これも客の到着を待っているイタリアのトレッキング隊のポーターと一緒にひなたぼっこをする。クーンブ地方の地図には興味があるようで、知っている地名をたどっている。また、池田の持ってきていた『牧夫フランチェスコの一日』という本の写真を説明してあげたりもした。「この写真はジャパンか?」「いや、イタリーだ。君たちが荷物を運んであげている人たちの国だ。でもイタリーの田舎はここと似ているところもあるんだ。ほら、この写真は最近のだけれど、みんな石の家に住んでるし、頭に水の壷を載せて運んでる人もいるだろう?」「ほんとだ」「ジャパンだってちょっと前まではこんな所が多かった。僕の子どもの頃に住んでいた家にはかまどがあって、薪を取りに行ったりしていたよ。ここだって交通の便が良くなれば変わっていくはずだ」「そうか。ところでこの写真は誰だ?」「キリストの母親だ」「ああ、ブッダ・マーヤか」。午後しばらくしてガスが降りてきた。夕方、ポーターのサンゲが荷物を背負って降りてきた。アタックは成功したとのことだった。30分ほどして、池田とガイドが到着した。池田は疲労でへろへろだった。


 アイランドピーク(6189m)(池田祐司)
 2時20分起床。前回に比べてよく寝れたし、喉の乾きもない。ただ、胃のあたりがもたれた気がする。紅茶と少しのジフィーズを腹に入れ3時に出発。しかし、20分もしないうちに腹具合が悪くなり、そうこうしているうちに2度吐く。昨日楽に行けたハイキャンプまでもきつい。この後は、腹部からの気分の悪さで前屈みになりながらガイドの後をとぼとぼと追うだけである。どうやらガレた道を登りきり5800mくらいから雪の上となるが、緩やかな斜面もとにかく足が出ない。しばらく行った階段状の雪壁ではザイルを引いてせかされるが、しばしばうずくまり情けない限りだった。雪壁を登り切ると2ピッチほどでピークで、遠くに見えていた頂をピークと思っていた僕にはあっけなく頂上に着いた。頂上からはローチェ南壁が間近に見える。また、以前トレッキングでBCに行った事があるマカルーが見え感慨深いものがあった。ちなみにピークと勘違いしていたのはローチェシャールのピークだった。そんな勘違いをするほどの状態だった。帰りも体調は悪く、他パーティのフィクスでのアブザイレンも思う様にできず、途中で頂上で食べたスニッカーズを吐く有様だった。
 ピークには行ったものの、とても登ったといえるような山行ではなく、ガイドに連れていってもらっただけである。自分たちで登るのであれば、数回の偵察とフィックス工作等を重ねた上でないと行けなかった。
続く|